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Wrightings
インタビュー 東島毅

2010年10月

神奈川県立近代美術館、「プライマリー・フィールド Ⅱ絵画の現在─七つの〈場〉との対話」(展覧会図録)pp.32〜37

――まずは現在制作中の作品のことからお聞かせいただけますか。

東島(以下 TH):最近は絵の一部分を光の集積みたいな感じで表現できないかなと思って、パラパラっと透明な屑ガラスの粒を画面の上に撒いて貼り着けるようなことをやっています。最近、いわきの美術館で発表した作品に《雨が止んで》というのがあるんですが、それなどがそうですね。

――その「光」に対するこだわりは東島さんの中ではどのような感じで設定されているのでしょうか。もちろん画家は誰もが「光」に対してそれぞれのこだわりがあるとは思いますが。

TH:それは「可能性」というか、あるいは「未来」というか。

――「光」とひとことで言っても物理的な側面もありますが、東島さんにとって「光」のイメージは、もっと内面的で精神的なものという捉え方ですか。

TH:そうですね。

――東島さんの作品の前に立つと、気配としてそのような「光」ということも感じさせられ ますが、と同時に何か「影」といったようなイメージも強く感じさせられるような気がします。もちろん「光」も「影」も東島さんにとってはずっと重要なテーマであり続けていると思うのですが、その考え方が何か少しずつ変わってきたことってありますか。

TH:そうですね。最近は「光」といっても、なんとなく極東の光のようなイメージがありますね。もっと気候や風土を含んだ光。歳を重ねたせいか、若い頃に欧米に行って勉強してきたと言っても、今自分が住んでいるこの場所の気候や風土を含んだような光といったものに、すがるような気持ちになってきました。

――若い頃にロンドンやニューヨークに住んでいらっしゃいましたが、たしかニューヨー クではジュリアン・シュナーベル(1951‐ )のアシスタントも務めていらっしゃいましたよね。

TH: 最初は友人だったのですが、金銭の授受が発生したので、友人からアシスタントになりました(笑)。

――東島さんの作品はアメリカから帰国して日本で発表を始めてからずっと、キャンヴァスに描くタブロー形式の作品でも、まるで壁画のような超大型の作品が多いですが、「スケール感」ということで思い続けていらっしゃることはありますか。

TH:「手に負えない」ということがひとつにはありますかね。手に負えないスケールとか、手に負えない壁のような作品を作りたいというか。それと絵も壁画や壁のように建築の一部であるという意識もあるかもしれませんね。その「ざっくり感」がいいと思うんですよね。「ざっくり」というのは、厳密に人間がこうしたいとか、ああしたいとか、こういう見方をしてほしいということが、あまり分からないということ。そういう「ざっくり感」に「可能性」とか「未来」とか「光」ということを含んだようなものが、「スケール感」なのかなとも思いますね。大きな作品だと、最初遠くから見た時は大きいなあと思うのだけれど、近づいて見ると、その大きさというのはもう記憶でしかなくなる。

――予想をはるかに超える巨大なスケールの作品を近くで視ると、視る方も没入して、その作品の大きささえ忘れてしまう。

TH:その「ざっくり感」によって、もしかしたら鑑賞者の側も自分の立ち位置を試行錯誤し、探し始めて、自分の身体の向きとか、その日の気分によって、ここに居たいという場所や位置を探す。左右に歩いたり、上を見上げたり、広い空間の中で、そういう気持ちの余地 というか、選択の振幅の幅がそれだけ保てるんですよ。

なぜそういうことを言うかというと、僕は岡山のアトリエの野外で制作をしていて、その前には田圃がひろがっていて、その田圃のスケール感とか、あのキャベツが、ばーっと並んでいる時の爽快感とか、キャベツが半分収穫されて、あと土だけ残っている様子が、まさにカッコイイなあと思って。それから、たまたまトラクターの跡が線状に掘り返されて残されている様とか、その線の位置や様子は、僕にとってすごくリアリティを持つから、そのまま抽象絵画を描く時の、取っ掛かりとしては納得ができるし、それをもとに制作して、失敗してもいいやというぐらいの「ざっくり感」。その空までも含めた「ざっくり感」に触発されて、将来は大きなスケールの前屈みの絵を描いてもいいなあとも思っているんです。その前屈みの大きな絵を支える棒があってもいいなあとか。そんな建築的な作品の前で、観賞者の側の軸が動いていくような。そういうようなことをこの 2、3 年は考えて制作しているんです。

――展覧会会場で鑑賞者の歩く導線とか、目の高さとかも考えますか。

 

TH:それはおもしろいことですね。人によって作品を右回りに回る人もいるでしょうし、左回りに見て行くのが好きな人もいますしね。いったん右回りに回った人が、今度は逆回りに作品を見て行くと、「あれっ」と思わせて何か気付くことがあるとか。右回りで入って見 た時と、左回りで見た時は、そこに在る物は同じなのにイメージがまったく違うとか。そういうことはよく考えますね。

――通常、一般的な絵というのは壁に掛っていて、それを鑑賞者が正面から見るというかたちなわけですが、東島さんの絵は床に平らに置くというのもありますが、同じ絵でも垂直に立てた時と、床に置いた時では、垂直・水平という意味以外にも、かなり違った見え方をしてくると思うのですが。

TH:垂直・水平という意味はもちろん重要で、それもあるとは思うのですが、絵の中に表面があって物語性とかがあってということではなくて、それだけではない絵の物質性ということもあるので、そこもテーマとして可能性を探りたいということがあるんです。前から見てカッコイイなら、後ろから見てもカッコイイだろうとか、あるいは絵を寝かせてもカッコイイとか。だからといって、絵画としての絵画というか、形式としての絵画というところも外していないという絵をつくりたいんです。

――最初は壁に掛けて展示していたのが、絵がだんだんと床に降りてきたというのは、何かきっかけのような瞬間があったのですか。

TH:ある時アトリエで、絵を立てている状態よりも寝かせて見た方が、絵が断然生き生きとしているなあと思ったことがあって、これはもうそっちの方がよければパーンと飛び降りるような感覚だったのですけれど、まあ絵を寝かせて見せたとしても別に殺されるわけでもないし...。制作者としてはそういう感じでした。

――絵が床に出てきたら、画面の内部の色・形もだんだんシンプルな構造になってきたということはあるでしょうか。

TH:画面の中の距離感や空間がどんどん遠く、そして大きくなっていったような気がします。最近は自分の絵は「風景画」でいいんじゃないかとも思っているんです。風景を描くということ。たとえば、先程も話したアトリエから見えるキャベツ畑とか、隣りの工場だとか、電信柱とか、たまたまそこに西日が入った時の影とか...。そういったものが、僕の作品をつくる上でとても重要なものになっている。そういったものが、自分の身体を通過して出てきたものを大事にしたい。

――そういったところから、画面内の色や形を探っていくということですか。

TH:そういう意識は強くありますね。遠回りして、もがき苦しみながらやっている感じですけれど。途中で画面が汚い感じになったとしても、画面のレイヤー(層)を重ねて行くことによって、その途中は自分ではなんだかよく分らなくても、自分がもがいた行為や経験が 画面に記憶として残ってゆく。それが絵にとって大事なことであり、必要な気がします。

――絵画は不可避的に歴史性を帯びたものでもありますが、東島さんは、絵画の歴史と自分のスタンスやポジションはどのような関係にあると考えていらっしゃいますか。

TH:究極的なことを言うと、祈りたくなるような絵というのは大切ですよね。なかなか手に届かないものを目指すというか。美術史というのはよく分からないんですけど、僕が最も好きなのはレンブラント(1606‐1669)なんですよね。 ヨーロッパに行った時は必ず見に行きますね。《夜警》などは特に好きですね。

――「祈る」ということは宗教的な意味だけではなく、何か超えるに超えられないものに向かって超えようとする行為の表れのようでもありますね。あるいはそれは、何か個人の恣意的なものを超えて、無名性や匿名性の方向へと向かう精神のようなものと言っていいでし ょうか。東島さんの作品も個人の恣意的な表現を超えたところにある無名性や匿名性という方向に作品は向かっているような気がしますが、東島さんは作品の無名性や匿名性について思っていらっしゃることはありますか。

TH:ニューヨークで生活していたとき、通りに水色の壁があったんです。大きいだけで、ただのコンクリートの壁なんですけど僕は大好きでした。その壁は天候や時刻によってみるたびに肌理の表情を変えるんです。誰が作ったのかまったくわからないし、そんなことを問うことすら無意味ですけど、僕にとってはとても魅力的でした。そのありようとそれを美しいこととして受容する自分がいて、いまここに存在する。それだけで OK なんだ、という肯定が作品の無名性や匿名性につながっているのかもしれません。

――今回の展覧会では具象的な絵画、半具象・半抽象的な絵画、あるいは東島さんのように抽象的な絵画と呼べる作品が展示されますが、それはある意味、外見上の絵の佇まいのようなもので、作家自身の中では、具象の中の抽象性や、抽象の中の具象性といったことが強 意識されているような気がします。先程もご自身の絵は「風景画」とおっしゃっていました が、東島さんの中では、具象性と抽象性はどのような関係にあると思っていらっしゃいますか。

TH: 抽象性は、自分のこころに浮かんだイメージの、いまだニュートラルなままのもののような気がします。いまだこれと言えない、宙ぶらりんのままの、未分の美しさというか。 これから次のシーンを開放するための door key という感じです。それは理解できなかったり説明できなかったりキャパシティを超えたりで、はじめは未知なものかもしれない。それがやがていろんな解釈や作り手の記憶や経験を通して、総合されたひとつの共通理解としての具象性を獲得するんでしょうね。そこには理解に辿り着いていこうとする知の美しさがあると思います。

――先程、田圃に偶然できたトラクターの跡が線状に掘り返されて残されている様とか、その線の位置や様子がとてもリアリティを持つというお話をされていましたが、そういう線は人為的なものでありながら人為性をあまり感じさせないものですよね。田圃にできたそ の線から、絵を描く時のタッチやストロークへのインスピレーションをもらうということはありますか。

TH:ありますね。昨日までうまくいかずに悩んでいた線が、そういうところからインスピレーションをもらって、ぴたっと嵌まる線になるというか。不思議なんですけれど、自分が決められないから周りで決めてもらったような感じですね。

――そういうことって絵画にとってとても重要なことであるような気がするのですが、「あーなればこーなる」といった予定調和的ではない何か。観念的な考え方ではうまくいかないことが、自分を超え出る力をもらって、ポーンと超え出ちゃうという瞬間ってありますか。

TH:ああ、それはありますね。そういうことがうれしくて絵を描き続けているというか。出来たものはそんなにたいしたことはないとは思うんですが、そういう時の興奮というのはありますよね。

――田圃に偶然できたトラクターの跡だけではなくて、そういう要素がもし画面に含まれていたら、絵を見る側も見飽きないということがあるかもしれませんね。田圃に偶然できた跡のような、見るたびに違って見える見飽きない絵の構造といえばいいでしょうか。シンプ ルな構造の絵の中にもそういうことってあるような気がするんですが。

TH:そうなんです。自分で普通だと絶対こんな線は引けないのに、雨が降った後の水たまりの形とかを、それこそ信じちゃうみたいなことってありますね。自分が作った形よりも、自然が作った形の方が、思し召しの光みたいな瞬間を具現化しているというか、それを留め るというか...。そっちのほうが、開かれているというか、自分だけで作るんじゃなくて、「責任分担でいいよね」みたいな...。自分ひとりでは、しょいきれないし、理屈抜きに嵌りますね、それは。そして、絵の色彩や形体とかマチエールということについても、その要素だけで考えることはしたくないし、できない。綜合的かつ直感的に捉えた全てのものを、いかに作品に定着させるかということにいつも集中したいと思っています。

――東島さんが作品をこれで完成だと思う瞬間ってどういう状態の時なのでしょうか。

TH:そうですね。やっぱり、ぱっとした閃きみたいなものってあるんでしょうね。「これでいいのだ」という。過不足なく全部調っている瞬間の閃きみたいなものが。僕の場合そんなたいしたもんではないとも思うんですが。もしかしたらその時のそれは間違っているのか もしれないのだけれど。これでいいかなというところまでは 7 割から 8 割ぐらいまでは、いつも行けるのですけれど、最後にたとえば横に寝かせて良しとする作品も、立てて見たら ダメだったら、もう少しやり直したり...。たとえ大きな作品でも、立てても寝かせてもカッコ良くないと気分悪くて。そういうことは厳しくやっていきたいなと思っています。目には見えない何かを、作品とテレパシーみたいに、やり取りしているというか。作品とのコミュニケーションというか。作品が一段落した時の隙間や自分の肉体の限界近くまで来たときに、何かが見えてくるというか。まだ体が疲れていない時は、疲れ果てるまでどんどんやって行って、一服して、また次の日にそれを反復するという集積と、先程も言った、もうひとつ何か自分以外から借りてきた力みたいなものが入ってきた時が完成というか。そういった綜合的に自分に希望を与えてくれる瞬間みたいなものが来た時が完成だと思うんですけれども。

――作品タイトルについてはいかがでしょうか。95年頃は無題に近い、作品ナンバーのような記号を付していただけだったのが、最近は短いセンテンスの少し詩的なものを付していらっしゃいますが。それは何か思うところがあったのでしょうか。

TH:そうですね。初期の頃はタイトルはイニシャルや番号だけで、アメリカのミニマル・アートみたいに、作品は作品だけで成り立たなければいけないとか思っていたんですけれど、最近は、作品と僕の関係、作品と社会の関係、作品と自然の関係...、そういうことを考え始めたらタイトルを付けざるをえないというか、タイトルを付けたいという気持ちが強くなってきたんですよね。見る人のイメージが拡がったり、作品への入口になるなら、それは作り手として最大限努力するべきだなと思ったりして、付けるようになってきました。付けた方が面白いし、ペインティングだけの表現ではなく、言葉には何かコミュニケーション・ツールという以上の力があるし、アートへのつまらないフィルターも取っ払うこともできるかもしれないし、自分にとっても、作品への入口を明快にしてくれることもあると思っています。普段の経験の中から思いついたり、考えたりした言葉をメモしたものを書き溜めていて、その言葉が作品づくりのきっかけになったり、イメージを膨らませてくれたりもします。最近は言葉の力ってすごいなと気づき始めて、普段からそういう言葉やメモを書き溜めるということをしています。

――最後に今後の展開について思っていらっしゃることがあればお聞かせください。

TH:それ聞かれたとたんにある英語を思い出して“Who knows what will happen tomorrow”とか“I don’t care”とかいう感じですかね(笑)。なんかいつも「あと、もうちょっと」「あと、もうちょっと」って感じで、あともうちょっとやればどうにかなるかなあという感じの繰り返しですね。いつも目の前に在るものでしかないというか。あえて言えば 最近は、円空の木彫りの彫刻のような、身体のスケールに合った感じで「ザクザクっ」と、「クルクルっ」と、作る、あの荒削りだけど合理的な感じに憧れますね。最近は、あの「ざっくり感」と祈りたくなるような感じにはとても憧れますね。

(2010年9月13日 京都にて)

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